ビルマ戦線 「生きて帰ってこい」弟にかけられなかった言葉、今も悔やむ
ビルマ戦線 「生きて帰ってこい」弟にかけられなかった言葉、今も悔やむ

ビルマ戦線 「生きて帰ってこい」弟にかけられなかった言葉、今も悔やむ

05/08/2014

「生きて帰ってこい」。第二次大戦の激戦地、ビルマ(現ミャンマー)から生還した元兵士、谷川順一さん(98)=大阪府枚方市=は、死守命令を受けた弟にこの言葉をかけなかったことを、70年たった今も悔やんでいる。
昭和19年6月の雨が降る夜だった。ビルマ北部のモガウンの陣地を守っていた谷川さんのもとを、同じくビルマに派遣されていた4歳下の弟、収吾さんが突然訪ねた。日本軍が惨敗を喫したインパール作戦の敗残兵らを迎え入れる拠点を死守せよとの命令を受けていた。「兄さんとはこれで二度と会えないと思う」と別れを告げに来たのだった。
死を覚悟した弟を前に、谷川さんは言葉を失った。「死守とは死ぬということ。戦場とはいえ、こんな悲惨な別れがあっていいものか」。思いがこみ上げる兄に対し、陸軍少尉だった弟は「兄さんの分まで国に忠義を尽くしてくる」と言い残して前線に向かった。
数日後、モガウンにも敵が出没し、谷川さんの部隊は撤退。収吾さんらの部隊も全滅した。2人きりの兄弟だった。「戦争は本当に残酷なことをします」。年老いた兄が振り返る。(複製画)
京都市で生まれた谷川さんは、京都市美術工芸学校(現市立芸術大学)を卒業し、画家を目指した。昭和13年に日中戦争に参加。18年末に再び召集されビルマへ派遣された。2度目の戦地は中国戦線と比べものにならないほど過酷だった。
仏領インドシナ(現ベトナム)のサイゴンから徒歩でタイを経てビルマに入り、北へ進んだ。当時、ビルマではインパール作戦などが展開されていたが、制空権はすでに敵の手に落ちていた。補給がままならない中で、日本軍は次第に追い込まれていった。
谷川さんらも英軍機の激しい爆撃にさらされた。雨期で道はぬかるみ、木の上から血を吸うヤマヒルが忍び寄る。多くの仲間が戦闘だけでなく、飢えや病で倒れていった。
谷川さんも敵の戦闘機と遭遇するなど、何度も命の危険にさらされたが、不思議と弾は当たらなかった。「弟が守ってくれたおかげだと思うことも、何度かありました」
生き残った者は終戦を迎え、ラングーン郊外の収容所で捕虜生活を送った。
谷川さんが所属した歩兵128連隊は、ビルマ戦線で約8割にあたる約3千人を失った。「あの時代に生まれた巡り合わせかもしれないが、われわれは何のために行ったんか、何の大義があったのだろうか」。多くの仲間を失った谷川さんは、今も問い続けている。(写真を油絵)


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